北前船の海道(かいどう)をゆく第1夜「日本を変えた北の産物 昆布ロードを辿る」

北前船の海道(かいどう)をゆく

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第1夜「日本を変えた北の産物 昆布ロードを辿る」

シリーズ第1夜は、北前船始発の地、北海道。
北前船で栄えた日本最北の城下町・松前、鰊漁の江差、今に残るその跡を訪ねる。 松前城下、菩提寺に眠る代々の藩主の墓。そこに使われるしゃく谷石は福井の産。 さらに四角の石を組み合わせる不思議な形だった。理由は航海の安定をとるための船の重石。航海で使われた重石が、文字通り開拓の礎となった。江差は、かつて鰊漁で賑わい「江差の5月は江戸にもない」と謳われる。
町に370年続く「姥神大神宮渡御祭(うばかみだいじんぐうとぎょさい)」は鰊の大漁に感謝する祭り。豪華絢爛な13台の山車行列やお囃子は、京の祇園祭の流れをくむという。

北海道から積み出したものの中でも、「鰊」と「昆布」は、日本の産業や食文化に大きな影響を与える。鰊を絞って作る鰊粕が魚肥として使われると、日本の農業は一変。窒素、燐が豊富で肥料効果が高く、瀬戸内の藍や近畿の綿花の生産を一気に拡大させた。やがて繊維産業が勃興。北海道の「鰊」が日本の近代化の基礎となった。
また、北前船で多量に運ばれた「昆」布は、作家司馬遼太郎をして「昆布以前と昆布以降とでは、味覚の歴史は大いにかわったかと思われる」(「菜の花の沖」)と言われるほど。昆布の伝播した道は「昆布ロード」といわれる。北海道から始まり、青森、秋田、山形、北陸とまさに北前船の寄港地には、それぞれ独自の昆布文化が発達した。
番組では、海から遠い秋田の山間の町・横手で発達したおぼろ昆布加工の技術、新潟県民の正月料理といわれる「鮭の昆布巻」、昆布の消費量日本一の富山に発達した様々な昆布めん、昆布豆腐、昆布巻き、昆布蒲鉾などの昆布料理、同じく「昆布がなければ正月もあけぬ」といわれる金沢の老舗の鰊の昆布巻きなど、今は郷土を代表する料理となった昆布料理を紹介する。最後、昆布ロードの終着点・京では、日本料理の最高峰「瓢亭」の昆布のダシの旨さに迫る。

第2夜「青森・秋田から世界へ 北の交易回廊を辿る」

シリーズ第2夜は、北前船本州の玄関口、青森 そして秋田。 
江戸時代、青森県は東側を南部領20万石、西側を津軽領10万石に分かれていた。青森から積み出された物は、「大豆」「材木」「海産物」や南部の「銅」、両藩が競い、湊は13といわれる。 
江戸時代、北前船の本州の玄関口。蝦夷(北海道)を出港した船の最初の寄港地であり、これから本州の各湊(港)へ向けた資材、食材をどこで売るかを判断する為、各地の相場、相場を予測する為の情報が集まる“情報の十字路”だった。そのため、各地の商人たちは競って青森に支店を置き、銭五こと加賀の銭屋五兵衛や高田屋嘉兵衛も青森の支店を重視したといわれる。 
番組は豪商たちが軒を連ねた下北半島の野辺地、田名部、川内の湊を紹介。野辺地には、「隣町まで、かゆのすする音が聞こえる」といわれた豪商たちが愛した「ワレケツメイ茶の茶がゆ」が、田名部には京都祇園の流れを汲む「田名部神社例大祭・田名部まつり」が。今も伝わる。川内の豪商「小針屋」に残った多くの文書は「小針屋文書」と呼ばれ、読み解くと、当時の情報の流通がよくわかる。 
津軽の御用湊・鰺ヶ沢。この地の鎮守「白八幡宮」の玉石には、日本各地の商人・船頭の名前が残る。幕末創業の造り酒屋は、当時、海産物の仲買人。当時の蔵がそのまま仕込みの蔵に使われている。津軽第2の湊は深浦。円覚寺(えんがくじ)には、全国的にも珍しい髷を貼った絵馬、「髷額(まげがく)」が残されている。嵐に逢いながらも難破を免れた船乗りたちが、自らの髷を絵馬として奉納したものだ。

さらに番組では、2005年に復元された北前船「みちのく丸」の自走実験を取材。
従来、二枚帆・竜骨・甲板の西洋式帆船に比べ、一枚帆・板構造・甲板のない北前型弁才船は走行能力が低く、追い風でしか走れないという誤ったイメージで語られていた。が、みちのく丸の実証実験により、追い風だけではなくあるゆる風を利用した航法が可能なこと、その速度の速さ、経済性など、その驚異的な能力が分かって来た。

青森の次の寄港地、出羽の秋田。秋田には、佐竹藩20万石の御用湊土崎湊、県南の金浦、そして、県北の能代湊がある。能代湊は、日本一の銅の積み出し港。能代から積み出された銅は、当時、国際通貨として流通していた銅の1/3とも半数ともいわれる。 
18世紀の経済学者アダム・スミスは、日本の銅の影響をその著「国富論」の中で、日本の銅の影響を警告している。 
銅の算出は、内陸の「阿仁銅山」。佐竹藩藩は当時泉屋住友家と並ぶ銅商人大坂屋と組み、開発を行った。阿仁銅山で産出された銅は舟運を利用して能代湊へと運ばれ、ここからは、北前船航路で大坂、そして長崎まで運ばれた。長崎から先を担ったのは、当時、西洋の国で唯一日本と国交のあったオランダ。オランダは、日本の銅を扱い、覇権を争った。 
番組は、阿仁銅山から長崎、そしてオランダまでの銅の流通を取材、「世界経済を動かした秋田・阿仁の銅」の道を辿った。
さらに、大坂屋14代目を発見!豪商の家に奇跡的に残った絵巻を解き明かす。

第3夜「雅と豪放 湊町 酒田の商人文化」

シリーズ第3夜は、北前船発祥の地 豪商たちの町「酒田」。 山形の大河最上川。その河口にある酒田は、廻船問屋97軒、年間3000艘の船が出入りし、湊は「帆柱の林」と呼ばれ西の堺と並び称される繁栄を見せた。 そのきっかけとなったのは、寛文12年1672年。幕府の命を受けた河村瑞賢が、綿密な調査を行い、堅牢な船・熟練水夫を選び、途中の寄港地を定め、入港税免除や水先案内船の設置などインフラを整えた上で航路を設定した。調査から1年、酒田を出発した瑞賢の船団は、日本海、瀬戸内海を経由して、江戸にたどりつくことに成功。この西廻り航路の開発によって北前船が生れ、日本海は大動脈となり繁栄するのである。
その繁栄を支えたのは、最上川の舟運と三十六人衆(さんじゅうろくにんしゅう)と呼ばれた36家の廻船問屋、廻船宿。酒田を領有した庄内藩は酒田奉行所を置いたが行政の大半を三十六衆に委ねた。
酒田は町人が中心となる他と異なる自由の気風溢れる町だった。豪商たちが意地と粋を見せ、町に利益を返したのが、今も盛大に行われる「酒田祭り」だ。

三十六人衆の筆頭は本間家、「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」といわれた日本一の大地主本間家である。本間家には「満ちてあふれざれば、長く富を保つ所以なり。」という家訓がある。腹八分目の哲学である。さらに本間家には町に尽くすという家訓もある。CSRなどの生まれる遥か昔、酒田には本間家が町の為に行った空前の事業があった。その事業とは・・・?
また、米の他、商品作物を運んだ。中でも、山形に多くの富をもたらしたのが紅花だ。山形の紅花は品質が良く、「紅一升金一升」といわれるほど高値で取引された。江戸後期、全国の生産量の50%以上を山形の紅花が占めていた。 酒田湊から積み出された紅花は、京で染料となり、華やかな京文化を支えた。

第4夜「新潟湊 大河で栄えた北前航路最大の商都」

シリーズ第4夜は 日本海沿岸随一に賑わい新潟湊とそれを支えた舟運。
新潟県の主な港は、北から岩船、新潟、出雲崎、柏崎、今町(上越市)。佐渡は小木。
最も取り扱いが多かったのは新潟湊。元禄時代、新潟湊に入ってきた船は40か国年間3500艘あまりといわれ、取扱いは50万両にも及ぶ日本海沿岸随一の繁栄をみせた。
モノが集まればヒトも集まってくる。老舗料亭が並ぶ古町界隈で江戸時代からの伝統と格式を引き継いでいる料亭に残る北前船が運んだ品々。江戸時代後期の絵師・長谷川雪旦(せったん)はその旅日記『北国一覧写(ほっこくいちらんうつし)』には、古町花柳界の名妓たちの名前や特徴と共に似顔絵、料理が残されていた。番組では、豪商たちが食べた当時の料亭の料理を再現した。

新潟を代表する民謡、佐渡おけさ。哀愁漂う節回しと優雅な踊りが特徴である。新潟県には、各地域に『おけさ』が歌われているが、そのルーツは九州熊本の牛深(うしぶか)のハイヤ節。
北前船の船乗りに唄い継がれ、渡って来たのである。一方、新潟から各地に伝わった民謡もある。北海道を代表する民謡「江差追分」のルーツは、古町芸者衆が歌った「新潟おけさ」だ。さらにそのルーツは、信州中仙道で唄われた馬子唄。それぞれの民謡を聴き比べ、そのルーツを探るってみると・・・。
新潟平野には、信濃川と阿賀野川という二つの大河が流れている。この大河の舟運が、新潟湊繁栄の理由である。新潟には、独特の舟運制度やそれに伴う米の取引の仕組みが、発達する。阿賀野川の上流、東蒲原は会津藩領。内陸の大藩会津藩松平家23万石に阿賀野川は生命線。阿賀町津川には、会津藩の川湊が置かれた。内陸の会津のご馳走は「鰊の糀漬け」。どの家でも正月に鰊を漬ける。北海道の鰊が、北前船に積まれ、川を上り、ここに辿りついたのだ。
そして、新潟の舟運がもたらした文化や祭りの数々。新潟塗りは、技法が海、川、街道を通じて各地から伝わり新潟で融合し出来上がった技術。まさに海と川が出合う、交通要地新潟だから生まれた漆塗りだ。

第5夜「日本近代化の礎 加賀 海の豪商たちの隆盛」

シリーズ第5夜は、「海の百万石」といわれた北前船豪商を代表する銭屋五兵衛とその後の北前船。
加賀の「北前船主」の多くは、もともと滋賀・ 近江商人の“雇われ船頭”から出発した17世紀後半から18世紀はじめのことである。近江商人は、内地から最初に蝦夷地に入った商人といわれ、蝦夷地開拓によってもたらされた交易品を運ぶ船の、船頭や水主として、若狭、越前、加賀の船乗りたちを重用した。航海を任され、商品売買を経験するにつれて、彼らはしだいに商才を発揮しはじめる。加賀、福井には、北前船主の村が多く存在する。 日本一の富豪の村といわれた「加賀市橋立」、船頭たちが長旅の疲れを癒した「山中温泉」など、番組では、北前船の船主の暮らしを紹介する。 
また、「海の百万石」といわれた加賀藩御用達の豪商銭屋五兵衛の活動・生涯となぜ銭五が成功したのか、豪商誕生の秘密に迫る。

さらに、北前船の湊であった門前町は、曹洞宗の本山「總持寺」の門前町として賑わった町である。巨大教団が能登半島の田舎で維持することがたのか、門前町が北前船の湊であったからだ。北前船が本山を支える員、物資の輸送を担ったのだ。

その後の北前船。
明治になると有力な船主は従来の日本形帆船に加えて汽船や西洋形帆形を購入し、江戸時代の北前船独特の商売だった買積み輸送ばかりでなく、他人貨物輸送にも乗り出した。その他、従来から兼業していた高利貸、銀行業、水産業(北洋漁業)、電力業、倉庫業、醸造を専業とし、日本の近代化を陰から支えたのである。